26.01.04.年頭礼拝『むしろ、神さまから知られ、覚えられている私たち』イザヤ49:13~16
- キリスト教会 インマヌエル久留米
- 1月25日
- 読了時間: 2分
序〕
今朝は一年最初の日曜礼拝。本来ならばその年に与えられた教会標語に基づいて語るが、今朝はその目標を期待して下さっている「神さま」について、まず心に留めるように導かれた。キーワードは「あわれみ」。あわれみ=ヘブル語原語では“ともに苦しむ”との意味。
本〕
Ⅰあわれみとは神さまのご性質
「主がご自分の民を慰め、その苦しむ者をあわれまれるからだ。」(13) 神はあわれみ深いというのはどの宗教でも教える。しかし「いつくしみ深き友なるイエスは」との讃美歌にあるように、神が「友だ」と伝えるのはキリスト教のみ。
■ヘンリー・ナーウェンの言葉
「あわれみ(ともに苦しむ)を経験する瞬間は、多くの場合、言葉ではなく、実は深い沈黙が流れる時だ」 ナーウェン自身が絶望していた時、二人の友がただ黙ってそばにいてくれたという。これが「あわれみ」(苦しみの共有)私たちが祈っても神はその苦しみの意味を解説されない。沈黙されていることが多い。でも臨在をもって傍にいて下さる。それが神のあわれみ。
Ⅱあわれみなき社会で生きている私たち
あわれみの逆は何か?「競争」。神などいらないという人たちで回っている現代社会。その中で生きている私たちは日々、生存競争にさらされている。そこにはあわれみ(ともに苦しむ)などない。他者をあわれむどころか、蹴落として自分だけが幸せになろうとする
Ⅲあわれみ深い神からの救い
ナーウェンの友人たちのように、神は私たちを苛立たせたり、追いつめたりなさらず、私たちが自分を取り戻せるまで黙ってそばにいて共に苦しんで下さっている。「主は私を見捨てた。私を忘れた。」(14) と思ってしまう時でも、実はそうではない。「このわたしはあなたを忘れない」(15)と神は語って下さる。孤独な時に何が私たちの救いになるか?それはこの小さな存在をも忘れないで支えて下さる存在ではないか。今日のタイトル「むしろ、神さまに知られ、覚えられている私たち」
結〕
限界ある私たちは、やがていろいろ忘れてしまう。教会のこと、イエスさまのことすら忘れてしまうかもしれない。全部忘れたら、結局、すべては泡となってしまうのか。そんなことはない。神さまが私たちを忘れない限り、神と私たちとの関係は永遠に続く。そして御国で永遠を過ごす。

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