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Information&礼拝メモ
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26.03.08.聖日礼拝『私たちの声を聞き、目を開いて、ご自身を示して下さる神』創世記21:14~21
序 〕 今朝覚えたい二つのみことばは、①「神は少年の声を聞かれ、」(11) ②「神がハガルの目を開かれたので」(19)。 この少年とハガルは親子。 本〕 Ⅰ私たちの声を聞いて下さる神 ①いつ神は少年の声を聞かれたのか?―少年の母が「声を上げて泣いた」時。 ②母はなぜ泣いたのか?-「あの子が死ぬのを見たくない」(16)と思った母があまりに少年の人生の短さを切なく思って。 ③この親子の人生に何が起こったのか-アブラハムの妻サラが「この女奴隷とその子を追い出して下さい。」(10)と言い、神さまの後ろ押しもあって、アブラハムが泣く泣く荒野に送り出した。11節に「アブラハムは非常に苦しんだ。」とある。イサク誕生の喜び「笑い」(イサクの名前の意味)のあふれる出来事。そもそもこの約束の子のためにアブラハムは選ばれ、そこからのイスラエル民族が祝されると計画されていた。その素晴らしい出来事が書かれている同じ21章にハガルとイシュマエルの追放という切なくも苦しい出来事が記されている。*これが私たちの人生の現実。喜びと悲しみが同居している。■荒野でいのちが尽きそう
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3月18日読了時間: 2分
26.03.01.聖日礼拝『心に安らぎがない者からも、キリストの香りは放たれる』Ⅱコリント2:12~14
序 〕「キリストの香りを放つ」と象徴的に言われるような、「証の立つクリスチャン」とは、穏やかで、あまり動じない人のように思いがち。しかし、今日のタイトルのように「心に安らぎのない者からも、キリストの香りは放たれる」 本〕 Ⅰ心に安らぎのない時は誰にだってある 順風満帆で何の波風もなかったという人はいないはず。■パウロはどうだったか?コリントの第二の手紙を書いた動機はその前に書いた「悲しみの手紙」の反応を知りたかったから。事の起こりは教会の中で赦しがたい罪を犯した「その人」へのパウロの処置を見てコリントの信徒たちはつらくなった。それを聞いて一度は教会を訪問しようと思ったが、パウロは手紙を書くことにした。それが「悲しみの手紙」。その反応をトロアスでテトスから聴けると思っていたのに聞けなかった。それで心に安らぎを失った。(13) 手紙のゆえに余計に彼らを傷つけたか?パウロも心配した。 Ⅱ平安がない時だからこそ 心に安らぎを失ったパウロだったが、その後の彼の態度から平安がない時だからこそ、どうすればよいかを教えられる。 ①前進~「マケドニアに向け
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3月18日読了時間: 2分
26.02.22.聖日礼拝『神さまに知られていることの幸せ、この圧倒的な恵み』Ⅱサムエル記7:16~20
序 〕「神である主よ、あなたはこのしもべをよくご存じです。」(20)このひと言に込められたダビデの感謝と感動を、今朝はともに味わいたい。 本〕 Ⅰ御心を確かめる祈り 自分だけが杉材で造られた立派な王宮に住んでいるのに神さまは?という思いから神殿建築の計画を持ったダビデ。「人には自分の行いがみな純粋に見える」(箴言16:2)とあるとおり、ダビデも自分の計画は良きものだと思ったはず。しかし彼の素晴らしい点はすぐに行動に移す前に、第三者(預言者ナタン)に相談した点。その真意は神殿建築が神の御心かを知ることにあった。「人は心に計画をもつ。しかし、舌への答えは主から来る。」(同1) *私たちもまず主にお伺いし、何でも祈ってから事に取り組む姿勢を身に着けたい。 Ⅱノーと言われる神 神殿建築は息子ソロモンに継がせると神はダビデに語られた。私たちの心に生じた願いが必ずしも神の御心にかなうとは限らない。神は私たちの与り知らない絶妙なタイミングとそれ以上の計画をご存じである。「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、主が人の歩みを確かにされる」(9)形だけを見る
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3月18日読了時間: 2分
26.02.15.聖日礼拝『木にも、私たちにも望みはある』ヨブ14:7~9
序 〕「木には望みがある」で始まる今日の部分は美しい表現である。しかし14章の文脈から読み取ると、絶望したヨブが木へのあこがれ、やや皮肉も込めて語った言葉だとわかる。「木には望みがある。でも人間は・・」という具合に。 本〕 Ⅰ人間が抱えている悲しい現実 木に比べて「しかし、人は死ぬと倒れたきりだ」(10)とヨブは続ける。人間の現実は死んだらおしまいとヨブは結論づける。彼は大試練に見舞われた。三人の友が励ますために来たが、かえって議論によって彼を落ち込ませた。14章はその一回目の議論の結びで、絶望する彼から出たのが、「たとえ木には望みがあっても、人間は死んだら終わり。木のように新しい芽が吹くわけではない」という悲しい現実。しかし・・ Ⅱその現実を希望に変えて下さる神さま 絶望の人生を過ごし、死んで終わりというあきらめを抱いていたヨブだったのに、一つの問いを神に投げかける。「人は死ぬと、また生きるでしょうか。」(14) 木を見て、自然界に再生の希望があるならば、同じ神からいのちを受けた人間にも望みはあるのでは?そう考えた彼は「私の代わり」がや
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3月18日読了時間: 2分
26.02.08.『預けられた「時間」の使い方の見直し』マタイ25:19~21
序 〕 タラントは、「賜物」「頂きもの」「才能」などと訳せる。今朝は、そのタラントを、神さまから預けられている「時間」に適用させて考える。 本〕 Ⅰこのたとえ話で想像できるシチュエーション どんな状況で主人はしもべたちに金を預けたか? ①三人全員一緒に呼ばれて順番に預けられたか? ②別の場所で、違ったタイミングで預けられたか? *想像力を働かせて聖書読むのは悪いことではない。 但しそこに固執してはいけない。私は②だと思う。 Ⅱこのたとえ話の中心点 このたとえは比較の話ではない。五タラント預けられたしもべは、二タラントのしもべと競ったのではなく、預けられたタラントをどう使うか考えてベストを尽くした。だから「良い忠実なしもべだ」とほめられた。このたとえ話は比較の話ではなく、忠実さを問う話。一タラントのしもべは地中に隠してそのまま出してきた。だから減っていたわけではなかった。でも主人は「悪い、怠け者のしもべだ」と怒った。忠実さを求めていたからだ。 Ⅲ預けられた「時間」の使い方の見直し ①比較の話ではないであれば、五・二・一の数字は関係なくなる。と
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26.02.01.聖日礼拝『現実との戦いの中でなおも私たちが光を放つ存在となるために』マタイ5:10~16
序 〕「内から外へ、主の光を放つ年」との今年の目標を考える時、実際の生活で具体的な問題となることは何か?この世の人間関係ではないか。主は「ののしり、迫害し、悪口を浴びせるとき」と語られて、キリスト者を良く思わない人たちの中で私たちが輝きを放つためにはどうすればよいかを教えて下さった。 本〕 Ⅰ視点を変えること 私たちが人間関係で戦いを覚えるのはどんな時か?それは目の前の、自分たちのことを攻撃してくる人たちのことしか見えていない時ではないか?そうではなく、主は「天の御国」のこと(10)、天で私たちが頂けることになっている「報い」のこと(12)を思って、むしろ「大いに喜びなさい」と教えて下さった。人との関係で疲れる時、このように視点を変える。私たちの国籍は天にある。地上にいながら御国を思って生きよう Ⅱ自分の存在価値を見失わない 恐れ多くも私たちを「地の塩、世の光」としてすでにイエスさまが見て下さっている。どうして私たちの存在が疎ましく思われたり、きつく当たられたりするのか?それは私たちに塩気があるから、無意識のうちに光を放っているからだ。そ
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3月18日読了時間: 2分
26.01.25.聖日礼拝『とてつもない神さまの愛が、私たちの存在を輝かせる』イザヤ55:1~5
序 〕 今日の中心聖句は5節「「主があなたを輝かせたからだ。」 今年の目標は「内から外へ、主の光を放つ年」。そのためには視野の拡大が必要。その実例として、先週はエリシャの召使いの目が開かれた出来事から学んだ。 本〕 Ⅰ私たちに対する神さまの深すぎるあわれみ その深い感情は2節。「なぜ、あなたがたは、食糧にもならないもののために金を払い、腹を満たさないもののために労するのか。」これは私たちを責める言葉ではなかったと思う。「どうしてそんなもののためにあなたたちの大切な時間や体力を使うのか。そうではなく今すぐわたしのところに来なさい」という神さまの深いあわれみがほとばしり出た言葉だったのではないか。子に対する親心にも似た感情である。 Ⅱ私たちに対する神さまの強すぎる招き 「水を求めて 出て来るがよい」 (1)、「耳を傾け、わたしのところに 出てこい 」■「水」「穀物」「ぶどう酒」「乳」など、全部私たちのいのちを生かすもの。それを「金を払わないで買え」「代価を払わないで」 とあるのは、それらが神の一方的な恵みによって与えられることを意味する。これは永
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3月18日読了時間: 2分
26.01.18 聖日礼拝『現実を変えるのでなく、私たちの目を開いて下さる神さま』Ⅱ列王記6:15~23
序 〕 今日の箇所で覚えたいキーワードは二つ。①包囲する ②目が開かれる 本〕 Ⅰ預言者エリシャと召使いが置かれていた現実 アラム軍の馬と戦車の軍隊が彼ら二人のいた町を「包囲していた」 この状態になるまでの状況説明(6:8~14) 作戦会議をすべて見破られていたことに激怒したアラムの王。その原因となったエリシャを捕えようとしてアラム軍が町を包囲した。■どうにもなら ない現実に取り囲まれていると感じている人が今日いるかもしれない。 Ⅱ目が開かれた召使い 目覚めた彼が見たものは夢ではなく現実だった。それは自分を見失うほどの光景だった。「ああ、ご主人さま。どうしたらよいのでしょう」(15)■「この厳しい現実から救って下さい」とか「この問題を今すぐ取り除いて下さい」とエリシャは祈ったわけではなかった。ただひと言「目を開いてください」と祈った。私たちもエリシャの祈りを自分の祈りにしなければならない。ある意味、目の前の現実を変えて下さいと主に祈ってもきっとそのような奇跡は起こらない。なぜなら、それがキリスト教ではないから。聖書が伝える神さまは私たちが
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1月25日読了時間: 2分
26.01.11.聖日礼拝 2026年 教会標語メッセージ『内から外へ光を放つ私たち』イザヤ49:1~6
序 〕 2026年の教会標語「わたしはあなたを国々の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする。」 (6)「地の果てにまで」とは大きなスケールのように思う。しかし創造者である神には当然のこと。私たちは視野を広げなければならない。本章は「主のしもべ」について書かれている。 本〕 Ⅰ主のしもべとは誰か 3節に「わたしのしもべイスラエルよ」とあるが、3節冒頭に「私」とかその次に「あなたは」と一人称単数で書かれているので、49章の「主のしもべ」とはイスラエル民族ではない。本来の彼らの使命を代わりに果たし、やり直す存在。それは来るべきメシア=キリストのこと。さらに49章の内容はイエスさまを信じるキリスト者にも適用される。 Ⅱ主のしもべに期待されていること それは「視野の拡大」。しもべに期待し、神が派遣される目的は二重構造になっている。 ①「イスラエルをご自分のもとに集めるため」(5)。しかし、すぐに神はそれを「小さなこと」と語られる。 ②もう一つの目的は、しもべを「国々の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする。」(6)と語られ
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1月25日読了時間: 2分
26.01.04.年頭礼拝『むしろ、神さまから知られ、覚えられている私たち』イザヤ49:13~16
序 〕 今朝は一年最初の日曜礼拝。本来ならばその年に与えられた教会標語に基づいて語るが、今朝はその目標を期待して下さっている「神さま」について、まず心に留めるように導かれた。キーワードは「あわれみ」。あわれみ=ヘブル語原語では“ともに苦しむ”との意味。 本〕 Ⅰあわれみとは神さまのご性質 「主がご自分の民を慰め、その苦しむ者をあわれまれるからだ。」(13) 神はあわれみ深いというのはどの宗教でも教える。しかし「いつくしみ深き 友なる イエスは」との讃美歌にあるように、神が「友だ」と伝えるのはキリスト教のみ。 ■ヘンリー・ナーウェンの言葉 「あわれみ(ともに苦しむ)を経験する瞬間は、多くの場合、言葉ではなく、実は深い沈黙が流れる時だ」 ナーウェン自身が絶望していた時、二人の友がただ黙ってそばにいてくれたという。これが「あわれみ」(苦しみの共有)私たちが祈っても神はその苦しみの意味を解説されない。沈黙されていることが多い。でも臨在をもって傍にいて下さる。それが神のあわれみ。 Ⅱあわれみなき社会で生きている私たち あわれみの逆は何か?「競争」。神
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1月25日読了時間: 2分
26.01.01.元旦礼拝『みことばの力によって望むことを成し遂げ、成功させる神』イザヤ55:8~11
序 〕 新年最初の礼拝で心に留めたいことは、「神さまのみことばの力」である。 本〕 Ⅰ圧倒的なみことばの力-11節 本章の背景~バビロンとの戦争に敗れて国が滅ぼされ、イスラエルの民たちは皆、奴隷にされた。そんな彼らにイザヤは、70年後には解放されて、国に戻り、神殿も建て直すことが出来ると預言した。ところが誰も前に進もうとしなかった。彼らはあきらめていたからである。■私たちも、何度やっても失敗ばかりが続くと、新しいことは期待せず、あきらめてしまうのではないか?年が改まっても、特に変化を求めず、荒波立てずにやり過ごせたらそれでいいと思ってしまう。イスラエルの民もそう思っていたのではないか。そのような彼らにイザヤが語った神のみことばが11節だった。「あなたたちの不安や無関心に関係なく。わたしが事を行なうと言ったら必ず成就する」と神は宣言された。 Ⅱみことばが、すべてを生かす-12,13節 みことばを受けとめたら、どんな結果が生まれるか?■バビロンによって滅ぼされ、荒廃した町の回復が宣言された。■私たちの日々の生活においても...
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1月25日読了時間: 2分
25.12.28.年末感謝礼拝『世の終わるその時まで、私たちに保証されていること』マタイ28:16~20
序 〕 今朝は、この世が終わるその時まで確かに保証されていることを心に留めたい。 本〕 Ⅰ私たちに保証されていること それは、いつもイエスさまが私たちとともにいて下さるということ。マタイの福音書は「インマヌエル」(1:23)で始まり、「インマヌエル」で終わる(28:20と言われている。「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」とのイエスさまの宣言から明らかにわかることは何か?それは今私たちが生かされている「この世」には終わりがあるということ。では誰が締め括るのか?それはすべての権威を持っておられるイエスさま。 ■「世の終わりまで」とあるが終わったら手放されるのかというとそうではない。世が終わったら新しい天と地が始まることになり、そこからイエスさまとの関係は永遠なのでこのことは言うまでもないこと。ただ肉体の命がある限り、私たちには戦いが続く。その間中、イエスさまは私たちから離れないでいて下さると宣言して下さった。 Ⅱその保証が継続されるための条件 ①私たちが一生かけてイエスさまの弟子となっていくこと。...
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1月25日読了時間: 2分
25.12.21.クリスマス礼拝『『ともにいて下さる神・救い主イエス』ヨハネ1:1 マタイ1:23 申命記31:8
序 〕 引用した三つの御言葉に共通していたひと言は「ともにいる」。朗読した順で、 先週と同じタイトルの「ともにいて下さる神・救い主イエス」ということを心に留めたい。 本〕 Ⅰヨハネ1章1節 なんとかイエスさまのことを伝えたいと思った時に、ヨハネは「ことば」という表現を用いた。■「ことば」とは何か?それは自分の心のうちにあるものを外に出す時に用いるもの。それによって私たちはその人自身を知ることが出来る。■神がご自分の思いを外に出された時、いつでもイエスという存在になっていた。いわば「歩くことば」、それがイエスさまだった。神さまはイエスさまを通して私たちとともにいることが出来なさった。 Ⅱマタイ1章23節 イエスさまの存在自体が「インマヌエル=神が私たちとともにおられる」を体現していた。なんとなれば、私たちとともにいるためだけに、神ともあろうお方が私たちと同
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1月25日読了時間: 2分
25.12.14.久留米教会クリスマス・キャンドル礼拝『ともにいて下さる神・救い主イエス』マタイの福音書1章22~23節
序 〕今朝は「ともにいて下さる神・救い主イエス」というタイトルで、二つのことを 心に留めたい。 本〕Ⅰ 聖書が伝える神とは? それは「ともにいて下さる神」ということである。どこかの観光地に行くと、そこにはお寺や神社がある。年に一度、あるいは特別な時にそこに行ってお参りをする人もいる。けれども聖書が伝え、キリスト教が示す神さまはどこかに行く必要がない。ずっと私たちとともに、私のそばにいて下さるお方である。■「その名はインマヌエルと呼ばれる」と書かれていたが、誰がそう呼ばれたか?イエスというお方である。このお方の人生はインマヌエルそのものだったと言える。「それは、訳すと「神がともにおられる」という意味である。」 イエスさまがそばにいて下さる時、人々は神が自分とともにいて下さる愛を感じたに違いない。聖書が伝える神とは、ともにいて下さる神さまで、私たち人間にイエス・キリストとして示されたお方である。 Ⅱ 聖書が伝える救い主とは? どこからか飛んできて助けてくれるスーパーマンのような救世主ではない。当時のユダヤ人もそう考えた。だから家畜小屋で
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2025年12月25日読了時間: 2分
25.12.07.アドベント第二週『神のことばが、戸惑う私を新しくする』ルカの福音書1章35~38節
序 〕御使いから自分がみごもっていると聞かされたマリアは戸惑った。(29)しかし、 最後は「どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」(38)と告白 した。なぜ彼女はそのように神のことばを受け入れることが出来たのか。 本〕 Ⅰ神のことばの恵みの力 マリアに対する御使いの最初のことばは「おめでとう」だった。(28) ギリシャ語でカイロ-(喜び)。御使いを通して語られたあの時の神のことばは単なる挨拶ではなく、マリア一人に限定されず、全人類に向けての喜びの宣言だった。イエスさまの誕生は新しい時代の幕開けを意味し、私たちのたましいの救いの体験を現実とした。 Ⅱ神のことばに戸惑う私たち 確かに神のことばは「恵み」だった。(30) 救い主誕生のために用いられることは光栄なこと、まさに恵みであった。しかし処女マリアは戸惑った。私たちも何かの出来事、誰かのひと言に戸惑い、傷つくことがある。そんな私たちと変わらないマリアを神が選び、イエ スさま誕生のために用いられた。マリアが特別だったのでなく、神が偉大。 Ⅲ神のことばを心開いて受け入
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2025年12月25日読了時間: 2分
25.11.30.聖日礼拝 アドベント第一週『受け入れ難い現実を前にした私たちへのメッセージ』マタイ1章18~25節
序 〕「ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい」これを現代に生きる私たちへの言葉として考えるとどうなるか。「目の前の、受け入れ難現実を、そのまま受け入れなさい」 今朝はこれを神からのメッセージとして受けとめたい。 本〕 Ⅰ受け入れ難い現実 ①ヨセフにとってそれは?=突然妊娠したと告げた婚約者の存在。彼にとってマリアは愛す るべき人。一日も早く結婚して幸せな人生を始められると期待していた。その喜びが完全 に奪われたと思われた。 ②私たちにとってそれは?信頼していた人から裏切られた。突然病に打たれた。愛する人と 死別した。受け入れ難い現実を私たちもたくさん経験する。 Ⅱ現実を前に葛藤する私たち ①ヨセフの葛藤=マリアの妊娠は聖霊なる神さまによると聞かされても、頭では理解出来た が心がついていかない。何日も葛藤の日々が続いたのではないか。それが人間だと思う。 ②私たちの葛藤=目の前に起こった現実をすぐに受けとめることの出来るキャパシティもな ければ、信仰で乗り切るだけのものもない。キリスト者であっても、もろく弱い。 Ⅲもがき
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2025年12月25日読了時間: 2分


12月14日(日)10:30~ クリスマス・キャンドル礼拝を開催いたします!
詳細は以下のPDFをご参照ください。
久留米教会 インマヌエル
2025年12月1日読了時間: 1分
25.11.23.すぺしゃるサンデー礼拝『私を恵み、行くべき道を教えて下さる主』イザヤ書30章18~21節
序 〕人生のどんな時に涙するか?自分の選択は間違っていたかもしれない。どこ で道を踏み誤ったかと後悔し、取り戻すことの出来ない自分を思って泣いて しまう。今朝はそんな私たちを救おうと立ち上がって下さるお方について学ぶ 本〕 Ⅰ人生の大前提 それは私たち人間の未来を握っておられるのは神さまだけということ。過去の出来事なら見返すことが出来るが、未来ついては一分後のことすら私たちにはわからない。だから時間に縛られない神に身をゆだねよと教えるのが聖書。不確実な日々をたどる私たちとは違って、神は確実で絶対的な存在。もし私たちが道を踏み誤ろうとしたら、「うしろから『これが道だ。これに歩め』と語って下さる。この神に頼ることが一番安全安心である。 Ⅱ私たちが絶対にしてはいけないこと それはこのお方を抜きに突き進んでしまうこと。私たちの未来をご存じの神がおられるのならば頼ればよいものを、それをしないことは罪であり自殺行為である。■絶対にしてはいけないことをやらかしたのが南ユダの民「シオンの民、エルサレムに住む者」(19)だった。彼らは神に頼らずエジプトと同
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2025年12月1日読了時間: 2分
25.11.16 宣教聖日礼拝『どうか、あなたがしようとしていることをなさってください』ヨハネの福音書 6章1~6節
序 〕 今朝は教団指定の「宣教聖日」。宣教とは何か。論を学ぶことも大切だが、身近に起こる現実問題の中でイエスさまと向き合ってきた体験を証しする。それが何よりの宣教ではないか。今朝は大きな現実に向き合う主の姿を学ぶ。 本〕 Ⅰ主はしようとしていることを持っておられた 目の前の大群衆は「大きな現実問題」だった。ピリポを試された時、主は「ご自分が何をしようとしているのかを、知っておられた。」(6)■主がしようとしておられたこととはどんなことだったか? ①私たちが失望し、無力感にさいなまれる現実問題をひっくり返して下さるほどのこと。 ②人間の計算や思惑をはるかに超えるほどのこと。ピリポは「足りません」 アンデレは「何になるでしょう」と返事をした。でも主はしようとしていることを持って下さっていた。何と心強いことだろう。 Ⅱ主がしようとしていることを妨げてしまう私たち 食べて満足したはずの群衆が、それでもまだイエスさまに問い返したひと言は衝撃的。 「私たちが見てあなたを信じられるように、どんなしるしを行われるのですか。何をしてく ださいますか。」(3
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2025年12月1日読了時間: 2分
25.11.09.聖日礼拝『最高に味わい深い人生を送る秘訣』Ⅰペテロ2:3~6
序 〕今日の午後は「こころとからだの健康講演会」という伝道の集い、来週は宣教聖日。 それで、今日は「伝道」ということを心に留めたい。ペテロは手紙の中で、伝道はしなければならないことというよりは、むしろ自分の内側になされた救いの喜びと感動が抑えきれないものとなって外に表れてくるものだと書いている。 キリストのゆえに私たちは「最高に味わい深い人生」を送ることが可能になる。 本〕 Ⅰキリスト者の試練の捉え方 「宗教は弱い人間が信じるもので、人生の苦しみに耐えきれそうになくなったら、その時初めてすがるものが宗教だ」と多くの日本人が考えている。そのような人々に伝道するには、まず聖書がどのように「人生の苦しみ=試練」を捉えているか。それをキリスト者はどのように身に着けられるようになったかを語る必要がある。■ペテロは救われたばかりの信者たちに「試練はつらいだけのものでなく、尊いものだ」と励ましている。「朽ちていく金よりも高価」(Ⅰペテロ1:7)。再臨の時にイエスさまがご覧になるのは試練の時に私たちが働かせた信仰で、それを主は称賛して下さる。 Ⅱ試練の時こそ
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2025年11月22日読了時間: 2分
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